我々は科学の監視団たり得るか? 〜「科学との正しい付き合い方」を読んで〜

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(この記事は2010年5月に書いた物を転載したものです。)

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先日、とある飲み会で「科学との正しい付き合い方」の著者、内田麻理香さんから「いつになったら書評を書くのか?」と問い詰められたいった趣旨のご質問をうけた。皆様ご存じのとおり内田さんの「科学との正しい付き合い方」は、ネット上では非常に大きな反響があり、ネット上では侃々諤々の議論がなされている。

以前に内田さんに本を読んだことと後で感想をブログに書くといった事をご連絡していたのだが、今更、私がこの本の感想を書いてもしょうがないと思っていた。しかし、内田さんから問い詰められたのでリクエストをいただいたので、私なりに本書の感想を書いてみたいと思う。

《高度に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない。》

前作の「恋する天才科学者」は有名な「科学者」を身近にしてくれる内容だったが、今回の「科学との正しい付き合い方」は「科学」そのものを身近にしていくための本と言えるだろう。

では、どのように「身近」にしていくのか? これはなか々難しい。実際に本書の最初の方で「科学離れが進んでいる」「科学アレルギーが進んでいる」といった誤解を無くすような記述があるが、場合によっては「科学離れ」「科学アレルギー」以前の問題に「存在すら知らない」という事もあるのではないかと思う。

例えば、私は残念な文系で、本書で例にあげられている「虚数」という言葉を知ったのも高校を出てからだし「ベンゼン環」という言葉も、恥ずかしながら本書を読んで始めて知った。もしかしたら、単に私が常識が欠落しているだけなのかもしれないが、文系に進んだ人はこれらの言葉にも馴染みが無い人も多いのだと思う。

本書では「電線」や家庭の料理といった素材を使って「実は科学は身近にあるの物」といったアプローチを取っているが、本書でも書かれている通り、それぞれの仕組みが見えにくくなっている。例えばパソコンなどの情報機器を例に挙げると、少し前まで、デスクトップパソコンはパーツを手に入れれば簡単に作れたり中身を見ることができた。これがノートパソコンあたりになると、パーツを見ることができても自作することが難しくなる。さらに携帯電話まで行ってしまった場合、部品をバラして中身を見るというのは難しい。

では昔はどうだったのか? これは次回のロージナ茶会ちゃんねるでも取り上げるが、昔はハード自作の雑誌で、個人でビデオデッキや電子オルガン、アマチュアテレビ放送などをやっていたらしい。今ではなかなか難しいだろう。(もっとも、今でも「MAKE: Japan」などのイベントがあるので、これらのイベントが広がっていけば、またそのような物が復権してくるのかもしれない)

《高名だが年配の科学者が可能であると言った場合、その主張はほぼ間違いない。また不可能であると言った場合には、その主張はまず間違っている。》

このような「科学を身近に」といった主張は、今までの本でもあったが、本書の読みどころはここからだ。サブタイトルが「疑うことからはじめよう」とある通り「疑う」ことについて、徹底的に書かれている。なぜ「疑う事」が必要なのかは本書を読んでいただければと思うのだが、この「疑う事」について、特にネット上でも大きな話題となったのが高名な科学者達の「事業仕分け」に反対する集会の件だ。

本書では、この決起集会について「ぞっとする全体主義」「科学教の狂信」とかなりバッサリと切っている。こちらについては詳しい中身は本書を読んでいただければと思うが、著者は「ノーベル賞・フィールズ賞という事だけで“正しい”という事になってしまい思考停止になっている」「科学の重要性の説明する事を放棄している」とかなり厳しい批判をしている。

《可能性の限界を測る唯一の方法は、不可能であるとされることまでやってみることである。》

著者のこのような考え方に対して「餅は餅屋というし、理系の専門家にまかせれば?」という考え方もあると思うが、著者はそのよう考え方に対して「理系の専門家だけにはまかせられない」として持論を展開している、詳しい内容は本書を読んでいただければと思うが「普通の感覚から離れていること(専門バカと言っても良いかもしれない)」「科学技術の無批判な応援団になりやすい(これこそ科学教ですね)」とし、読者の方に「科学の監視団」になってほしい、という事を「あとがき」でまとめている。

我々のような素人が「科学の監視団」になれるのか? これはなかなか難しいところではあるが、著者の内田さんが「事業仕分けに反対する高名な科学者達の集会」でファインマンを思い出したように、私もこの文章を読んで「ご冗談でしょう、ファインマンさん」の中のある一説を思い出した。少し長いけど引用してみよう

 ボスは僕らのグループは民間人からできている部なんだから、中尉は僕たちの誰よりも高いランクにあるのだと言った。そして「中尉には何も言うなよ」と僕たちに忠告してくれた。「いったん僕らのやっていることの内容がわかったと思い込んだら最後、とんでもない命令を下しはじめて、せっかくの仕事をめちゃくちゃにするのに決まっているのだから」

(中略)

だが視察に来た中尉には、自分はただ命令に従っているだけで、いったい何をやってるのかさっぱりわからないふりをし通した。

(中略)

中尉はこの調子で、ほんとうの事は誰からも聞き出せず、おかげで僕らは余計な邪魔をされずに、この機械式計算機の仕事を続けたというわけだ。
ある日中尉がまた視察に訪れて、いとも簡単な質問をした。「観測手と砲手が同じ場所にいなかった場合どうするのか?」僕らはキョッとした。

(中略)

結局僕たちが何も指図されまいとして避けていたその中尉の方が、僕らに非常に大切な事を教えてくれる結果になってしまった。

[ご冗談でしょうファインマンさん]より

あのファインマンですら、若い時はこのような失敗をしているのだ。現在の「高名な科学者」とファインマンを比べるのは難しいとは思うが「民間人の中尉」がファインマンの間違いを指摘できたのだから、我々も「高名な科学者」の間違いを正すことはできるかもしれない。